15年前の3月20日はアメリカ・イギリスによるイラク戦争の開戦の日です。

15年前の2003年3月20日にアメリカとイギリスのイラク空爆によって、イラクでの戦争が始まりました。

 

イラク戦争から15年、その検証を求めるイベントが専修大学で3/18にあり、“イラク戦争の検証を求めるネットワーク”のイベントに参加してきました。 

そこから少し2003年ことを振り返ってこの記事を書いています。

 

■開戦当時国際的にすでにいくつかの共有されている事実がありました。

イラク大量破壊兵器を持っていない可能性が高い。

イラクはすでに700か所以上の国連の査察を受け、米英から指摘された場所に関しても査察を受けている途中であった。

国際連合安全保障理事会でアメリカのコリン・パウエル国務長官(当時)が示した証拠は信ぴょう性が低く、国連安保理では否決された。

 
■また、日本国内では、そういった情報は政府側からは示されず、メディアもあまり報道しなかった。

またアメリカの情報の事実検証もメディアによってされなかった。

 
■そして日本政府(当時小泉首相)はアメリカおよび有志連合によるイラクとの戦争を支持し、停戦前に自衛隊を復興支援として派遣することにしました。
 
フセイン大統領(当時)の死後もイラクの治安および政情は不安定が続き、アメリカの統治下およびイラク政権ができた後も(フセイン政権当時よりも)テロや政権によるイラク国民への殺害や迫害は続きました。
 
その後中東全体での政情不安は拡大し、シリアやイエメンでは深刻な事態が続いています。
 
■また現在の日本で立ち止まって考えることは、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)とのことです。
 
フセイン政権は決していい政治や外交を行っていた訳ではありませんが、果たしてアメリカや日本国内の情報だけでどれくらい正確な判断が出来ていたのでしょうか?
そして、その後日本政府およびメディアでの検証はどれくらい行われたのでしょうか?
 
その後の世界情勢を見ても、イラク戦争が決して世界の安定、安心をもたらしたわけでも、戦争による死者を減らした訳でも、平時の安全を高めた訳でもありません。
また戦争によって使われた大量の兵器の犠牲者の多くは民間人であり、クラスター爆弾の不発弾による地雷化や劣化ウラン弾による放射能汚染はその後も影響を残し続けています。
 
■また、武装解除をした国に対する戦争が現在の北朝鮮の政策に与えた影響の検証も必要だと思います。
 
■さらに自衛隊自衛隊員に対する影響も検証が必要だと思います。派遣先での死者および自殺(自死)者、帰国後の自殺(自死)者のこと。そしてイラク以外の国への派遣。例えば戦闘が行われているスーダンへの派遣および日報の改ざん、その後の検証がなされていないこと。
自衛隊員の命を守ることも重要な課題です。
 
■今後考えたいことは、
東アジアでの戦争による問題解決を止め、融和と対話による国際的な交流にどれだけ国民が合意して進めるかが重要だと考えています。
 
イラク戦争の検証を求めるネットワークイベントリンク:
 

脱原発はするかしないかの行動の話:2/27「脱原発のドイツに学ぶ~ミランダ・シュラーズさん来日講演」に参加して

脱原発のドイツに学ぶ~ミランダ・シュラーズさん来日講演」に参加してきたので、ごく主観的に報告してみます

 

さて、日本は脱原発をするかどうか。
それは、日本に住んでいる人が何を電力に選ぶか、どんな生活をするか、政治の声を出すかどうか、何に賛成し、何に反対するかを示し、行動するかだということだと思いました。

そう、できるかどうかの可能性の話ではなくて、するかしないかの行動の話なんだということです。
そしてそのためにどこに意識を置くかの話なんだと思いました。

ドイツの状況

1983年にドイツでは、核兵器原発に反対している緑の党が国会で議席を得ました。チェルノブイリ原発事故の前です。


つまりドイツでも脱原発の機運は事故前から高まっていました。そして1986年、チェルノブイリ原子力発電所での事故のあとドイツにも高濃度の放射性物質が雨雲によってもたらされました。その距離1300キロメートルです。
日本でいうと福島から1000キロメートルくらいに九州があります。が、補足すると放射性物質は放出量や天候によって飛来する距離や場所が変わってきます。
日本経済新聞が2016年に書いたチェルノブイリと福島に関する記事も参照してください。

悲劇から30年 チェルノブイリの実相:日本経済新聞

 

そんなドイツでも、すぐに脱原発に向かったわけではありませでした。
事故の後、市民による大規模なデモが行われるなかドイツでも高速増殖炉の計画は許可され、進むことになりました。

つまり市民レベルの脱原発への動きがあり、大規模な原発事故があっても日本と同じように原子力政策はすぐに止まらなかったのです。

そこからドイツが脱原発に向かうまで何があったか。

ひとつは諦めなかったことです。
少しずつ政治を変えました。
1998年社会民主党緑の党連立政権ができました。
チェルノブイリの事故後12年、脱原発再生可能エネルギーへの転換を図ります。
2005年にはキリスト教民主同盟社会民主党連立政権になりますが、原子力政策に変更はありませんでした。その後2009年にキリスト教民主同盟自由民主党連立政権になり方針転換がなされますが、
現在再び脱原発再生可能エネルギー政策に進んでいます。

 

そしてもうひとつは、福島での原発事故です。
脱原発に向かったのはドイツだけでなく、お隣の台湾や韓国も福島第一原発での事故を受けて脱原発再生可能エネルギーに政策転換をしています。

 

さらに別の現実もあります。
もうすでに世界的には原子力は石油、石炭と同じように世界の趨勢ではなくなっているからです。この講演会でも何度かベースロード電源について触れましたが、今では火力や原子力に代わって、再生可能エネルギーがその役割を持てるくらいに供給量が増えていることも示されました。
※ベースロード電源については2014年のThe Huffington Postの記事も参照してください。 

原発は「ベースロード電源」に 「ベース電源」とは何が違うのか

 

またドイツでは福島の事故のあとに倫理委員会が設置されました。
そしてその委員には原子力の専門家や電力会社の人は一人もいませんでした。引退した各党の元議員、哲学者、宗教家、そしてミランダさんも選ばれました。

 

僕たちにできることはたくさんあります。

脱原発、エネルギー転換を訴える。それはデモでもいいし、SNSFacebookTwitterInstagramなど)での投稿でも、日々の暮らしの中でも。


選挙で投票する。組織を作って、自分たちの政策を叶えてくれる政治家を生み、当選させる。あるいは支持する。

 

そして、電力会社を変える。

電力自由化のあと、東京電力から他の電力会社に切り替えた人の電力量はは中部電力の供給量と同じくらいだったそうで、そのことの方が東京電力には堪えたそうです。

 

議員に連絡する。

原子力推進派にも、原子力反対派にも、脱原発派にも、新エネルギー派にも対しても、
「いつも応援しています。私は火力や原子力ではなくて再生可能エネルギーを望みます」と伝えてみてください。

 

他にも大事なこととして、
自分の暮らしを変える。電力に頼りすぎていないかどうか。
自分が暮らしている場所に対しても、過剰な要求をしていないかどうか。

 

他にも方法はあると思います。
試して、広めてみてください。

 

日本には朗報があります。

脱原発を2022年を目標にしているドイツの7基よりも少ない3基しか稼働していないこと。
2011年のあとにすべての原発が止まっていた期間があったことです。
※2013年から約2年間原発が止まっていたことに関するWIREDの記事(原発が全停止した日本、しかし炭素排出量は増加せず:米政府の調査結果):

原発が全停止した日本、しかし炭素排出量は増加せず:米政府の調査結果|WIRED.jp

 

以上、簡単ですが、速報として書いてみました。

今回もうひとつ思ったのは、ドイツ在住のアメリカ人のミランダさんが日本語で脱原発について語る。それだけでも聞きに行く価値があったのかもしれないです。
人は国を超えている証拠だからです。

 

そして、僕が会場に着いた時にはすでに準備していた資料は配り切っていて、再印刷待ちでした。
最後にアナウンスとして300名以上が来場したとのことです。

f:id:saulsaul:20180302093101p:plain

 

多民族な国~アイヌ、福島、日本

アイヌのことが気になっていることから昨日友人と話をして、
日本をもっと知りたいということが出てきた。
昨年福島ラーニングジャーニーのときに、田村市の由来が坂上田村麻呂ということを聞かせてもらい、福島には他の民族がいたんだなということを思い出させてもらったころから、
日本にある埋もれた多民族性を知りたいというのがあることを言葉にした。
しかも、いたんだなと過去形で書いたけど、今住んでいる僕たちのことでもある。

おそらく江戸時代くらいまでは日本人という感覚がなかっただろうなということを思うと、今からでも日本人観、日本観をいまよりも多様に捉えることはできそうで、そんな入り口としてアイヌに今関心が向かってるんだなということに話していて気づきました。

で、そこから突然意識は飛躍するんだけど、
海外に住んでいるという自己イメージとそのためにもより日本ことを知りたいという欲求が出てきました。

そして最後はさらに飛躍して、
ブラジルポルトガル語とハングル語を学びたいと言っていました。
というわけで、この二つの言語を学んでみます😋

甥に連れられて浅草寺参り~そして梅むらへ

今日は浅草に来ていました。
ご近所なのですが、大分久しぶりです。

 

 

今日も浅草は、外国からの観光の方や学生の修学旅行で賑わっていました。

 

そして僕はその修学旅行生の一人、甥っ子に会いに来たのです。
とはいえ、甥っ子は浅草は初めてということもあり、
そこが雷門なのか、小舟町の門なのか分からず、
仲見世通りをお互い行ったり来たり、おそらく途中すれ違ったんではないかとも思うんですが、
まず出会うまでに20分くらい要してしまいました。

無事出会え終えてみると友達と一緒にペアで行動していました。
さてその友達は振り回されたんじゃないかと思ったり、
多動な甥っ子に、落ち着いたその友達の姿に少し微笑ましさも感じていました。

ほんの10分にもならない時間ですが、じぃじ、ばぁばたちへのお土産を探すお供をしました。
無事お土産も買い、二人は集合場所に走って戻っていきました。

 

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外

 

久しぶりの浅草、帰りは豆かんで有名な梅むらに寄ってお土産を買って帰宅しました。
梅むらは以前訪れたときから代替わりがあったみたいで、若い、といっても同世代くらいの、ふたりがお店をやっていました。

お土産は、豆かんではなくて、なんとなくあんみつとみつ豆にしました。豆のおいしさを知りつつも、そんな日でした。
一応説明しておくと、豆かんは豆とかんてん。みつ豆は豆とかんてんに果物や求肥が、あんみつはそこに餡がのかったものです。あと黒蜜が付きます。

今日も以前訪れた数年前を思い出すような、懐かしいのんびりした時間でした。

 

自らは立ち、流れは生まれる~そして、立春・春節・大斎節の関係性について

立春も過ぎ少しずつ寒さと暖かさが行ったり来たりしています。
初書き込みは、春節期間中(2018年2月15日から21日)ということもあり、このブログの始まりってこともあり、春節のことを書いてみます。
さらに今は大斎節(2018年2月14日から4月1日)でもあるのでそのことも書いてみます。

さて、今日は

今日は2018年2月18日です。

あるいは春節の初三(2018年1月3日)です。

または大斎節第1主日です。

春節とは

春節太陰太陽暦を基準とした中国を始め東アジアで使われている(あるいは一部はかつて使われていた)暦です。1年の初め、正月で、2018年は2月16日です。

春節は日本でかつて使われていた暦なので旧正月と呼ばれたりもします。

大斎節とは

大斎節とは、キリスト教の暦で2つの大きなお祝いの日のひとつ復活日(イースター)に至る期間のことです。
四旬節、受難節、「レント」(Lentと呼ばれたりもしています。

ちなみにもうひとつのお祝いの日は降誕日(クリスマス)です。さらにキリスト教の一年の始まりは降誕日を待ちわびる降臨節の初日(11月27日から12月3日)に始まります。

 

グレゴリオ暦グレゴリオ暦との関係

グレゴリオ暦は現在世界の多くの国や地域で使われている暦のひとつです。
グレゴリオ暦で今日は2018年2月18日です。太陽暦を基準に作られた暦です。
そして基本的にはこのグレゴリオ暦での日付で表しています。

また春節と大斎節の二つの暦は年によって日にちが移動します。

 

2011年から2020年の春節

春節の正月(旧正月)は必ず新月(朔)の日で、冬至から2番目の新月(朔)です。1月21日から2月19日ごろになります。

  • 2011年2月3日
  • 2012年1月23日
  • 2013年2月10日
  • 2014年1月31日
  • 2015年2月19日
  • 2016年2月8日
  • 2017年1月28日
  • 2018年2月16日
  • 2019年2月5日
  • 2020年1月25日

2011年から2020年の大祭始日

大斎始日(灰の水曜日)は復活日の46日前(日曜日を除く40日前)で、2月4日から3月10日の間です。

※復活日は、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日(3月22日から4月25日の間の日曜日)

  • 2011年3月9日
  • 2012年2月22日
  • 2013年2月13日
  • 2014年3月5日
  • 2015年2月18日
  • 2016年2月10日
  • 2017年3月1日
  • 2018年2月14日
  • 2019年3月6日
  • 2020年2月26日

春分立春について

ついでに春分立春のことも見ておきます。
春分はいわゆる昼と夜の時間が同じ日のことです。昼間の時間が一番短い冬至春分の中間を立春と呼んでいます。

立春はおおむね2月4日(2月3日あるいは5日のことも)です。

立春春節と大斎節の関係性について

お気づきだと思いますが、この3つの暦は年によって前後します。

           立春  春節   大斎始日

2011年2月4日   2月3日   3月9日

2012年2月4日   1月23日 2月22日

2013年2月4日   2月10日 2月13日

2014年2月4日   1月31日 3月5日

2015年2月4日   2月19日 2月18日

2016年2月4日   2月8日   2月10日

2017年2月4日   1月28日 3月1日

2018年2月4日   2月16日 2月14日

2019年2月4日   2月5日   3月6日

2020年2月4日   1月25日 2月26日

 

6日間くらいで訪れることもあれば、一か月以上離れていることもあります。

基本的には立春春節、大斎始日の順番が多そうです。

そういう意味では今年は珍しく大斎始日の方が春節よりも先に来ています。

 

2011年春節 立春 大斎始日

2012年春節 立春 大斎始日

2013年立春 春節 大斎始日

2014年春節 立春 大斎始日

2015年立春 大斎始日 春節

2016年立春 春節 大斎始日

2017年春節 立春 大斎始日

2018年立春 大斎始日 春節

2019年立春 春節 大斎始日

2020年春節 立春 大斎始日

 

こんな感じの順番です。

グレゴリオ暦(いわゆる西暦)に慣れていると、暦は固定したもののように訪れる感じですが、東洋でも西洋でもこうやって太陽の季節と月の暦を取り入れているのはおもしろいなと感じています。

さらに他の暦を採用している国や地域はあるわけです。

 

おわりに

ところでこの記事を書こうと思ったきかっけを思い出しました。

春節に入って、何かいい流れが生まれているなと感じたからです。

昨年あるタイミングで四柱推命を見てもらったときに2018年からは調子がいいですよ。いままで準備してきたことが花開きますと言われました。それも新暦ではなくて旧暦の新年からと。

確かにそうだなと感じています。不思議なもんで過去成してきたこと、積み重ねてきたこと、準備してきたことが相互作用を起こしてきています。

ありがたいことです。

 

というわけで、明けましておめでとうございます。
今年も、そしてこれからもよろしくお願いします。